はじめに
 産婦人科開業医の息子として生まれ育った私は、深夜、分娩室から聞こえてくる産婦の大声に目を覚まし、やがて聞こえてきた赤ちゃんの元気な産声を耳にして、また眠りについていました。お産がいかに大変であるかを、おぼろげながらにも認識したのは小学校低学年頃だったように記憶しています。
 医学部卒業と同時に麻酔科に進んだ動機のひとつは、お産の痛みを取るための無痛分娩を習得するためでした。そこで学んだ中で最も有意義であったのが、様々な麻酔法を学んだことはもちろん、「安全な麻酔を行うための注意事項」を叩き込まれたことでした。それはたとえば「麻酔中の意識のない患者さんの全身状態が良好かどうかの判断には、患者さんの皮膚、爪の色、表情、筋肉の緊張そして体温などを注意深く観察しなさい。そうすれば、血圧・脈拍・心電図などから得られる情報以上のものを得ることが出来るから。」、といった先輩の指導でした。
 1972年、麻酔科から産婦人科へ。
 産婦人科では分娩や新生児に関わる周産期医学を専攻しました。生まれたばかりの赤ちゃんは青白く、手足は冷たく、目を閉じ身を縮めて泣いていました。「この赤ちゃんは寒さで震えている!」それは、麻酔科医としての直感でした。しかし、同僚の医師や助産婦達にとってそれが普段見慣れた赤ちゃんの通常の姿だったのです。赤ちゃんの顔色がピンクになり手足が暖かくなるのは数時間後か、遅い時には翌日でした。そこで、私は生まれたばかりの赤ちゃんを生後1〜2時間、保育器に収容し暖めることにしました。すると、赤ちゃんの青白い皮膚が次第にピンク色に変わり、縮めていた手足をのばし指しゃぶりを始めたのです。しかし、保育器の温度を何度に設定すればいいのか、生まれてどのくらいの時間暖めておくのが良いのかなど、すべて試行錯誤で、その間は赤ちゃんの状態を観察するのに保育器の側に付きっきりでした。ところが、保育器に収容し保温した赤ちゃんは糖水やミルクを良く飲み、初期嘔吐も少なく、新生児体重減少からの回復も早く、黄疸の赤ちゃんも少なくなったのです。
 1983年、開業。
 その時には赤ちゃんの体温に関する研究を続けるために、全ての赤ちゃんと妊婦さんの妊娠中から分娩までの記録をデータベースに保存することから始めました。生後2時間の保温と、母乳分泌が思わしくない生後数日間の間のカロリー不足分を超早期混合栄養で補うことによって、黄疸は激減しました。驚くことにこの6年間の約3000例の全ての赤ちゃんには、治療を要する重症黄疸はひとりも発症しなかったのです。当院の新生児室から黄疸の治療に用いる光線療法器が消えたのは言うまでもありません。
 この本の出版準備中にひとつの大きな出来事がありました。
 それは私が乳幼児突然死症候群(SIDS)研究を始めるきっかけとなった赤ちゃんとの遭遇でした。平成10年12月27日、福岡は珍しく寒い冬でした。午後9時頃電話がなり、偶然にも私が受話器を取ると電話の向こうではただならぬ気配です。産後3週目のお母さんの「先生、赤ちゃんの呼吸が止まってダラってなってます。」と悲痛な叫び声でした。「どうしたのですか?」という私の問いに、「赤ちゃんをお風呂に入れてました。」と興奮して泣くだけです。その後は会話が出来ません。「一番早い方法で赤ちゃんを私の医院まですぐ連れて来てください」と言って電話を切り、当直のナースと呼吸蘇生器を準備し玄関で待っていました。ところが、車から降りたお母さんに抱っこされた赤ちゃんは元気よく泣いていたのです。何が起きたのか詳しく聞いてみると「寒かったので風邪をひかせたらいけないと思い、いつもより熱く43℃のお湯で沐浴していた所、間もなく赤ちゃんの呼吸が止まった。」と言うことでした。ところが、当院に連れてくる途中、おそらく冷たい外気に触れたのでしょう。赤ちゃんは突然泣き出したとのことでした。その赤ちゃんは何事も無かったのかのように元気良く帰っていきました。
 このことは、外気の寒冷刺激が赤ちゃんの呼吸に促進的に働いたことを示す証拠となる出来事であったのです。しかし、それよりも、沐浴中の高温が赤ちゃんの呼吸停止を引き起こした事例に、より関心を持ちました。そのため高温環境が赤ちゃんに与える影響についての文献を急いで調べた所、高体温とSIDSに関する国外の論文が多いことに驚かされました。この沐浴中の出来事は今回の私のSIDSに関する新仮説を生み出す発端となったのです。