2008年6月4日 朝日新聞朝刊より
母乳育児柔軟性持って
母乳だけで育てられた赤ちゃんに低血糖が原因とみられる脳障害が起きた事例を5月28日付け紙面で紹介した。国内で母乳推進運動が始まって約20年。しかし、母乳以外は与えないという「完全母乳」推進の行き過ぎは母親を追い詰め、栄養面でも注意が必要ではと危惧する医師や助産師も出てきた。母乳育児はどのように進められるべきなのか。(編集委員 大久保真紀)

「栄養不足?」現場に不安
「栄養が足りているのだろうか」。看護専門学校で教員をしていた助産師は、5年ほど前からそんな不安を感じてきた。
学生を連れていく実習先の産科施設で、赤ちゃんがおなかをすかして泣き続けているからだ。母親の乳首を含ませてもすぐにまた泣くという。「昔に比べて、赤ちゃんがみずみずしくなくなったというのが実感です」と漏らす。
最近は、世界保健機関(WHO)と国連児童基金(UNICEF)が共同発表した「母乳育児を成功させるための10カ条」に忠実に従い、「母乳だけ」を貫こうとする施設が少なくない。だが、完全母乳を進める産科施設で生後数日の赤ちゃんがけいれんを起こしそうになっていたのに出くわした。
「粉ミルクを置いていないので、おっぱいを吸わせるしかない。でも、初産婦は母乳がちゃんと出るまでだいたい数日はかかる。これでいいのか、と思った」と吐露する。「完全母乳にするなら毎回赤ちゃんの体重を計ってどれくらい母乳を飲んだか、必要栄養量に足りているか、みるべきではないか」赤ちゃんが夜も泣き続け、睡眠不足でまいってしまう母親もいる。ベテラン助産師が、「ミルクをあげていいのよ」と助言すると、母親はほっとした表情を見せたという。この助産師は「母乳はできるだけ与えたほうがいいが、十分に出ない人もいる。ミルクはダメと刷りこむ行き過ぎの母乳推進は母親を追い詰めてしまう」と言った。

産科、独自に取り組み
福岡市の久保田産婦人科医院では独自の方法で赤ちゃんの体温と栄養を管理している。
@ 生まれた赤ちゃんを母親に抱かせた後すぐに32〜34度の保育器に2時間入れる。
A 生後1時間後に脳内出血などを防ぐためのビタミンKシロップを混ぜた糖水10ミリリットル(体重1キロあたり)を与える。
B その後は3時間ごとに母乳を吸わせ、十分に母乳が出てくるまでは不足分を人工乳で補うというものだ。

栄養不足は重傷黄疸や低血糖につながるとして、それを防ぐために実施している。血中のビリルビン値が高くなる重傷黄疸は脳性まひや聴力障害を、低血糖は脳障害を引き起こす要因となるからだ。
久保田史郎院長によると、取り上げた1万1千人の赤ちゃんに黄疸はほとんどなく、治療(光線療法)を必要とする重傷黄疸も17人と非常に少ない。保育器で体温が早く恒温状態に落ち着く→腸の働きが活発になり、生後間もなくから糖水や母乳、人工乳の消化が進む。→哺乳障害になる初期嘔吐が減り、ビリルビンが多く含まれる胎便の排出が進む、というメカニズムが働くからだという。
久保田院長は「母乳が満足に分泌するまでの生後数日間は、栄養不足に気をつける必要がある」と注意を促す。WHOの10カ条には「母乳育児の良い点を母親に教える」とあるが、良い点だけでなく弊害も伝え、説明と同意(インフォームド・コンセント)を取るべきだと提案する。
鹿児島市立病院では正常産児でも母親が糖尿病だったり子宮内発育不全だったり低血糖のリスクがある場合は、出産直後と生後4,8時間で赤ちゃんの血糖値を測定する。その後も母乳の飲みが悪かったり、体重が減ったりすると、測るという。
総合周産期母子医療センター新生児科の茨聡部長は、「母乳推進は否定しない。ただ、母乳が出ない人もいるので、完全母乳を進めるなら、赤ちゃんの脳を守るために血糖値を測定し、低いようなら糖水や粉ミルクを与えるべきではないか」と話している。