(5)赤ちゃんの健全な発育のために
 赤ちゃんの栄養面を考えた場合には完全母乳哺育の「理想」と「現実」にはギャップがある、と納得されたことと思います。そのギャップの原因は、多くの産婦さんが出産後数日間は母乳分泌が十分ではないことにあります。たった数日間と思われる方がいらっしゃるかも知れませんが、その出産直後の数日間が、赤ちゃんの重症黄疸などの発生にとって最も重要な時期なのです。もちろん母乳には数多くの長所があります。しかし完全母乳栄養法には赤ちゃんの栄養不足/重症黄疸の原因となるという短所があり、それら両方をよく理解した上で赤ちゃんの哺育に取り組む必要があります。現代の医療現場では「告知と同意(informed consent)」といって、医療行為をする場合には患者さんにその病気の原因や治療法などの説明を十分におこなった上で治療を始めることが一般的です。その際重要なことは、いくつかの治療法の長所と短所を説明し、患者さんに選択の機会を与えることです。出生直後の赤ちゃんの哺育も医療行為の一環です。WHO/UNICEFの母乳推進10カ条の第3条「すべての妊婦に母乳育児の良い点とその方法をしらせること。」はその点で少し逸脱しているように思われるのです。正しくは母乳育児の長所と短所の両方を公平に説明した上でお母さん方の理解と同意を得なければならないのではないでしょうか。もし、母乳推進10カ条の中に母乳栄養にも短所(欠点)があるという説明が盛り込まれていれば、母乳以外のものはたとえ糖水やビタミンK2シロップであっても飲ませないといった完全母乳主義には結び付かず、某市のビタミンK欠乏性出血症の一部は予防できたかも知れない、と考えられるのです。
 当院に寄せられる相談の中には、他院で完全母乳栄養の指導を受けた産婦さんからの声もあります。その産婦さん達によると、「貴女の乳首を出産直後からいつも吸わせてマッサージを続けていたら必ずおっぱいが出るようになります。」、「母乳以外はいっさい飲ませてはいけません。ミルクを飲ませたから貴女のおっぱいを吸わなくなったのよ。」、「貴女がお肉やケーキを食べたから母乳の味が変って飲まなくなったのよ。」などと言って励まされたり責められたりする、と言います。それらの発言はWHO/UNICEFの母乳推進10カ条の第6条/第9条に従った説明です。そこには母乳分泌を増やし完全母乳を推進しようとする意図は強く感じられますが、赤ちゃんが飢えている/栄養不足になっていることに対する気遣いはあまり感じられません。赤ちゃんの栄養不足よりも母乳分泌促進の方がより重要だと信じているように感じられます。おそらく、母乳哺育推進の指導者に栄養不足が重症黄疸などの原因になるという認識が乏しいからかもしれません。また一部の新生児科医が「赤ちゃんは3日分のお弁当と水筒をもって生まれてくるので、多少の栄養不足は心配ない」と説明しているためとも考えられます。しかし、当院のデータは栄養不足と重症黄疸などが強く関係していることを科学的に証明しているのです。発展途上国と違って、安全で衛生的な環境が整備されたわが国での赤ちゃんの哺育の原点は、何が完全母乳のためか/どうすれば完全母乳のためになるのかではなく、何が赤ちゃんのためか/どうすれば赤ちゃんのためになるのか、を考えることではないでしょうか。
  母乳育児はお母さんと赤ちゃんの間にスキンシップを生じます。それが母と子のきずなの形成や情操教育に役立つと主張されています。その意見は正しいと思います。しかし人工乳哺育(ミルク)では母と子のきずなの形成は不可能なのでしょうか。いえ、そうは思えません。なぜなら、当院の真正母乳分泌不全の母子の間で、母と子のきずなの形成ができなかったというトラブルはないからです。子どもの成長/発育の過程には多くの要因があり、母乳哺育か/人工乳哺育か、という単一因子だけで、親子関係や子どもの発育の結果が決められるものではないと考えます。むしろ、完全母乳でなければ親子関係や子の発達がダメになる、と強制し、人工乳が必要な親子を心理的に追い詰めることの方が、より多くの問題を生じさせるように思えます。
 赤ちゃんの出産直後〜約1週間(新生児早期)で最も重要なことは、胎内から胎外への適応過程をどのように順調に乗り切るかなのです。すなわち、肺呼吸が十分で低酸素血症が防げるか/分娩直後の体温下降からいかに早く回復し恒温となるか/いかに早く口から栄養を摂取し脱水や低血糖症を防げるか/胎児ヘモグロビンを壊し大人のヘモグロビンに変換する際どのようにして重症黄疸を防止できるか、などです。もちろん生まれてから母親や周囲の大人から愛されることも重要です。しかし順序としては、まず第一に胎外環境に早く適応し強く生きること、第二が周囲から愛されること、だと思われるのです。
 (July 26, 2001)